アマチュア無線資格試験奮闘記(1)・・少年のころの夢
定年を過ぎ現役を退くとそのまま何もしないで静かな余生を送られる先輩方々が多くおられるが,小生“たぬき”はなかなかその心境に至らない.むしろ気持ちは逆戻り・・若返り過ぎかもしれないが少年時代にあこがれていたことを実現したいと思うようになった.その一つがアマチュア無線である.
たぬきが育ったところは仙台から汽車で30分南のほうの大河原という片田舎である.子供のころはラジオ少年であった.家に並4という受信機があった.並4というのは真空管4本を使ったラジオだ.子供心にもラジオから音が出るのが不思議で仕方がなかった.箱の中に誰かがいるのかと思い受信機の裏蓋から中をのぞいたり,ラジオのスピーカに向かって“バカヤロー”となんて叫んでみたりしても反応なし.
小学生の4年のとき(たぶん昭和27年ごろ),ラジオの裏蓋を開け,真空管を抜いてみたり,真空管の頭につながれている線を外したりして起こる現象を観察していた.それが高じてついには壊してしまった.しばらくラジオのないときが過ぎたが,母がどこからかラジオを都合したが,それもまもなく“こだぬき”の手にかかってこわされてしまった.ラジオを壊したことでひどく怒られたという記憶がないので,母は自然に壊れたのだと思い込んでいたのだろう.しばらく,ラジオなしの時が過ぎた.そのころ少年雑誌に鉱石ラジオの作り方やキットが付録としてついたものがあり,むさぼり読みながら少しずつ電気配線図の知識を会得したのだと思う.
どこから手に入れたかは記憶にないが,5年生のとき並4ラジオの配線図を手に入れた.抵抗やコンデンサの記号や単位,真空管の足の配置図などよく知らないまま,並4ラジオを作ることを思い立ち,試行錯誤をくりかえして作ってしまったのだ.そして,作っては壊しまた作る,を繰り返して電気回路に慣れていった.小学校6年のとき,5級スーパーラジオを配線図だけで完成させた.その自作ラジオから初めて出た音はNHKの“ラジオ歌謡”という番組での“森の水車”という曲だ.“・・・コトコトコットン,ファミレドシドレミファ・・”,メロディはいまも覚えている.
中学1年生になった.スーパーラジオというのは,受信した電波に,その電波の周波数より455kHz高い電波を加えると信号電波の周波数は,受信周波数に関係なく455kHzに一定になる.それを増幅するのである.こうすることで,ほかの信号やノイズを増幅することなく,目的の信号だけを増幅できる.このテクニックは現在でも使われている.
スーパーラジオには発振回路がある.これを利用すれば電波を発射できる.発振回路で発生した電波に音声の波を乗せれば(もっと正確にいうと,発振回路で発生させた1.5MHzの波の振幅に音声の波(1000Hz程度)を加えると音声の波に合わせて電波の振幅が変化する.これを変調という),音声の電波送信が可能となる.こんなアイデアで送信機を作った.その頃真空管はST管(だるま管)からMT管(ミニチュア管)に移っていた.6BD6という管で発振回路を作り,低周波(音声)出力に6AR5を用いて変調する送信機を作った.出力は1W近く出たと思う.この装置を2台作り,100mぐらい離れた近所の悪友と通信を楽しんだ.このような電波を発射することが違法であり,“電波管理局”)に見つかるととんでもないことになることは分かっていた.当時はスパイ活動を防止するため電波監理は現在より厳しかったと思う.
合法的に電波を出すにはアマチュア無線技士の資格が必要である.当時は1級と2級の資格があり国家試験を受験しなければならなかった.学科試験と法律それにモールス符号である.2級の資格試験を受験しようと思いモールス符号を覚え始めたが退屈至極.そのうち無線への興味は薄れ,化学,特に火薬作りに精を出すようになった.その後電気工作に関して思い出すことはあまりない.大学生1年のとき白黒テレビを作ったことはよく覚えている.各家庭にテレビが普及し始めていた.白黒テレビで10万円ぐらいはしたと思う.我が家の経済力では購入不可能なので,自分で作ることを考え,2万5千円でできた.その後はずうっと定年まで化学関係で働き現在に至った.